植村せいさんの頁
2019年6月6日、植村せいさんが永眠されました。52歳という若さ。長堀にとっては高校で同じクラスだった植村君に声を掛けて演劇部に連れて行ってもらったので、演劇のすべてが彼から始まっています。それから36年間一緒に走り続けたり、離れたり、まあ、ちょっと遊んだりしてきました。まあ高校二年で書いた処女作にもそりゃ出てるしね、楽園王だけじゃなくメザマシ団とか役者としての共演も多い、劇場のブースに僕が音響でせいが照明で入った頃もあった。地方公演も運転が伴うと交代交代で運転できるから、一緒が多かったかな。烏取とか運転ジゴクだったね。札幌は2回目はもう闘病に入ってて行けなかったけど、一回目は南葉とせいと僕の3人で行った。地方に行っただけ、その場所その場所に大切な仲間が出来た。僕の芝居の作や演出の出演数、数え切れないので数えてないです。36年間ってけっこう長いので、語りつくすことも出来ませんが、ちょっと舞台写真などで振り返ったりしてみます。古いのは探せてないけど。なんか皆送ってくるので、さらに増やした。利賀での日常のヤツはむーさんが隠し撮りをしてたからあったやつ。36年、いや、その長さより、すごい個性の塊でさ、影響力半端ない人だったんですね。で、うちら仲間の間では、感傷ではなく不在の存在感がずっと続きそうって思います。モテたよね、男の子に。せいが好きだってヤツ多かった。俺、雨蛙の岡田の話好きなんだよね、劇場に公演労いにフラッてせいが現れる。発泡酒の缶を片手に。で、岡田に飲めって缶ビールを渡す。自分は発泡酒なのに、岡田には缶ビールを。それで岡田君はイチコロになる。僕はさ、せいはさ、まあ、楽園王くらいしか出らんないなぁと漠然と思ってきたんだよね。でも、岡田がまず自分の演出作に呼んでくれた。そして、次が長田が自分が演出するって時にせいを呼んでくれた。実現しなかったけど、野宮さんが是非、ってせいにオファーしていた。もう闘病に入ってたから実現しなかったけど、もし野宮さんの公演に出たりしてたらさ、その後、今や野宮さん青年団の演出部に入ったし、なんさ、せいがあっち方面の芝居に出るとかさ、もうあいつを知ってたらあり得ないようなことが起こったりとか、そういう未来もあったかな、とか思っちゃったりして、もう、本当、これからだった、って思うんだよね。これからだった。これから、まだ面白いことが待っていた。せいが、俺に向かって静かな芝居悪くないとか言っちゃう日もあったかもって、いや、それはないか? とにかく、本当、早すぎた。年齢だけでなく、まだこのホンは最後まで稽古終ってないって、そんな歯がゆさが。まあ、はい、僕の話はここまでで。まあこの度は、彼は神様になってしまったので、最初の1枚はオスカーワイルド「幸福な王子」の神様役から。でも日本の考え方の神様は、まあ、荒ぶるのを静める(鎮める)意味で祭るのがいいですかね、って思います。日本的な考え方では死んだら暴れて災いとか成すのが普通なので、まあ、鎮めるためにも、いい芝居やってこうって思います。
2018年9月18日に、せいから貰ったメールをそのまま掲載します。本人は怒るかな。でも、変な話だが、けっこう面白し、みんなの心に響くと思うんだ。芝居1本観たくらいの何かがある、さすが役者。これが最後のメールでした。この後にはずっと音信不通で、19年6月6日まで1年近くあるけど、その後のことは分からない。何通かメールしたけど、返信は来なかったし、しつこくもしなかったし。出演依頼はしてたけど。秋に1日だけ劇場押さえてあるけど、どうしよ。まあいいや。メール、ちょっとだけ中略してここに置いておきます。読んでくれたら嬉しい。せい、勝手に公開したぜ。
お疲れ様です。公演も無事終了したようで何よりです。
一度詳しい報告をと思っていたが余り楽しい話でもないので稽古中、本番中は遠慮していた。出演、稽古見学等の打診、唯ただ嬉しかったよ。だから、これからも色々連絡頂ければ有り難い。でも、そう言いながら何だが、やはり芳しくはないのだよ。以下、詳しく説明する。これまでに言った事ももう一度書くことになる。長くなるかも……。スマホでは打つのが大変なのでPCから送信する。Gmailアドレスなんだが初公開。迷惑メールホルダーに入らない事を祈る。あと、悪用しないように(笑)。 正式な病名は「原発不明転移性骨髄腫」 原発とは……癌というのは最初に出来たところの性質が転移先でも現われる。詳しくは省くが遺伝子レベルの話。だから肺に出来ていても大腸から転移していればそれは大腸がんの転移腫となる。故に肺に対しても大腸がんに準じた治療が行われる。そして大元を叩けばそれが完治(正確には寛解)となる。手術で取り除いたりするのはこの大元の部分ね。ところが自分の場合それが判らなかったのね。最初は場所、形、症状から悪性リンパ腫が疑われた。でも検体(癌細胞を取り出して遺伝子を調べる。場所が場所だけに全身麻酔で背中開いた。きつかったぁ。)の結果、尿路由来。腎臓から膀胱通って先っぽ(笑)までね。そこを精密検査したが発見出来ず。この時点で腫瘍が洒落にならないスピードで成長。原発不明のまま治療開始。原発が判らない原因は、小さすぎて見つからない、自然治癒してしまったなど幾つかあるのだが兎に角わからない。上に書いた理由で手術は出来ない。やりようがない。原発不明がんは希少がんに分類されるが癌全体から見て3~5%は有るらしい。が、一人ひとり見えないが原発は違う故に症状も違うので治療に有効なデータは無い。ただ、そんなこと問答無用で効く完治の可能性の高い抗がん剤治療(+放射線治療)があるのだが、これが俺には効かなかった。この時が一番ショックだったな。夜に医者に呼び出され緩やかな死刑宣告。いや、笑えんって。「これからはクオリティオブライフを考えて……」って。なんだよ、くおりてぃおぶらいふって。
転移性骨髄腫とは……転移性ってことは既に転移している分けで(日本語変?)ステージは4。後が無い。骨髄腫は文字通り骨や髄にできるのね。自分で言うのも何だが骨は痛い、らしい。でも舞台に立つ、と言うことを考えると痛みより場所の方が悪かった。痛みは薬で何とか抑えられるし我慢も出来る。でも腰が腫瘍で物理的に曲がってる。だから長く歩けない。それどころか真っ直ぐに立てない。こりゃあ致命的だわ。努力で何とかなる問題ではない。で、続き。結論から言うと次に用意された抗がん剤が効いた。ただこれは、転移した腫瘍に作用してこれ以上大きくならなければいいな、他に転移しなければいいなぁ程度。でも思いの外効いてくれて小さくなってはいるらしい。宝くじ一等よりは希望が持てた。でもこの後副作用、合併症等で大変な事となる。では、何度かの入退院その話。
急性心不全
数回の検査入院が終わり最初の長い入院に。君が来てくれたのもこの時か。始めに上記のような事があって治療が始まる。病気そのもののせいもあるが抗がん剤の副作用もあって食べられない。一ヶ月以上点滴の栄養だけで生きていた。これが悪かった。身体に水が溜まるのよ。おしっこも出ない。腫瘍が尿路を圧迫していると,ステント入れる手術も受けたが出ない。若い看護師に出せ出せ言われてもなんちゅうプレイだと喜ぶ余裕なぞなく腹がたつだけ。出ないもんは出ない。そうこうしている内に入院前10キロ減っていた体重が20キロ近く増えていた。全部水。これが血管を圧迫した。真夜中にトイレに行ったら呼吸不全、からの心不全。その名の通り息が出来ない、死にそう。気を失ってしまいたいのに何故か出来ない。コードブルー発動。家族が呼び出される。おい、聞こえてるって。まじ泣きそうだったよ。まあ忖度しない医者達のお陰で如何にか小康状態に。数日後ICUから『個室』に。えっ?そんな金無いよ。てか、俺そんなにヤバいんすか?で、翌日。俺が勝手に天敵と呼んでいる看護師に身体拭いてもらってる最中、また発作。二度目の急性心不全。今度は家族が病室から出される。が、まあ諸々は割愛して、これも結果的には事なきを得た。半分死にかけて事なきも無いもんだが……。それでも死なんかっただけで顔面は目以外全部覆う人工呼吸器つけられて身体中コード、チューブだらけ。24時間バイタルチェック(ピコーン、ピコーンってやつね、ピーーーってなったら死んでるやつ)。余談だが以降天敵ちょっと俺に優しくなった(笑)。床ずれが出来てバイタルの数値が自分で読めるようになる頃漸く呼吸器が鼻のチューブだけになりほぼ復活。結果としては心臓に這っている3本の血管の内1本が駄目になった。所謂心筋梗塞。これは仕方ない。我慢ならなかったのは退院後も鼻チューブに車椅子だろうとの事。冗談じゃない。この後退院までの結果ひと月。安静を言い渡す医師、看護師達の目を盗んで自己流リハビリ。点滴ぶら下げて酸素ボンベ引きずりながら兎に角歩け。その甲斐あってか心肺機能も多少復活し医者しぶしぶながらも呼吸器外してくれる。杖突きながらも自分の足で退院。11月末の事。いやぁ、しかし、医者に係ると病気になるって本当だったわ。
敗血症性ショック(血液中に菌が入ってしまい全身を駆け巡る)
年末年始は家で過ごす。ただ歩くだけだがリハビリも頑張っていた。でもこの間も微熱は収まらず、たまに40度の熱を出す。年明け、血尿収まらず。上記の症状。ステントが悪さをしているのではと、交換手術のため入院。ここから暫らく記憶がない。猛烈に眠いのにその度何度も医者がたたき起こす。後から聞いた話だが血圧の急激な低下のせいだったらしい。そのまま眠ってしまうとやばかったらしい。敗血症性ショックの一番不味いパターン。ただ同じ死ぬのでもこれは堪らなく気持ちがいい。死ぬ時は是非この死に方をお勧めする。で、次に気付くと中国の秘密研究所に囚われていた。その後は何故か走って板橋の踏切まで荷物を届けなくてはならないオリンピック出場経験のあるマラソンランナー、パレスチナの従軍ボランティア、函館のヤクザetc.現実ではベッドに腰ベルトで固定、指全部覆う手袋なんで何れも囚われの身。パレスチナなんて物資(爆発物含む)が置かれた倉庫の中。ずっと助けてくれ、出してくれって騒いでた。悪夢だったよ。間あいだに正常に戻ってたらしいのだが不思議とそこは記憶なし。どうも医者も恐らくでしかないのだが普段服用している痛み止めの麻薬(文字通り。癌の疼痛はある程度進むと麻薬でないと収まらないのよ、勿論身体にも人生にも良くはない)と手術時の麻酔がバッティングしてしまったのではないかとの事。漸く此方の世界に戻って来たら介護保険の申請が進められていて様子見に来た専門の看護師が慌ててた。申請は中止して下さいって、知らんよ。担当医は、おっ、戻ってきましたねって。ふざけんな。もう大丈夫だと思って、よく連絡くれていた南葉に連絡取った。慌てて来てくれたんだが、まだ完全じゃなかった様で、病室の外に犬がやってきたり(来るわけない)、隣の小学校(そんなものはない)の運動会がうるさかったりで怖かったろうなぁ。よく合わせてくれたよ、 -中略-
最終的には一時抗ガン治療を中止して点滴で徹底的に血液を洗う事になる。輸血もしてほぼ完璧。赤いモノが身体に入ってくるってホント気持ち悪いけどな。ガン治療も再開。最後に退院したのが4月の半ばになる。でも菌に弱くなってしまった。抗がん剤で免疫落ちるから尚更。更に筋肉が落ちてほぼ歩けないし、散々だよ。そんなこんなで今現在かな。週一で抗がん剤治療に通院している。怪我や感染に注意。熱が38度超えたら即入院て言われてるが胡麻化している。たまに出てしまうが7度5分くらいでしたって。
近い内に整形外科のリハビリに通おうかと思っている。少しでも歩ける様になれば稽古場くらい顔を出せるかも知れない。まあ、今でも腰から上は元気だからドアツードアでタクシーでも使えば行けるのだが気力がね、更にお金も。医療費馬鹿にならんのよ。あと見てくれも凄いことになってるし。副作用で髪だけじゃなく眉もまつ毛も胸毛もない。歯も折れる、砕ける。もう誰?って状態。……
……はっきり言っておこう。俺が完治ではなく完全に復活出来るには二通りしかない。ひとつは病状が落ち着いて癌と上手く付き合っていける状態になること。抗がん剤が減らせて上手く副作用が抑えられれば健常者と同じ外見で同じ生活が送れる。ただこれは奇跡に等しい。努力ではどうにもならない事。ただ待つしかない類の奇跡。待ってはみるけどね。もうひとつは病状が進んで抗がん剤が効かなくなって緩和治療だけになること。残された時間の前半分は自由に使える。但し何方も抗がん剤を抜く為の半年間が必要。ゴーサインが出てからそれだけは掛かる。常に現在から半年間は無理な状態。だから、すまぬ。今は誘われても返事が出来ないのだよ。
ただね、やっぱりこのままでは終わりたくないのだよ。悔しいんだ。死は誰にでも等しく訪れる。しかし、当事者としては理不尽以外の何者でもない。勘違いして欲しくない。死そのものは受け入れられる。この一年間いっぱい考えたし経験もした。でも、あれがお前の最後だったんだよ、なんて後から言われたって受け入れられるものではない。納得なんかしてやるものか。
舞台に立つ上での動機は今までは嘘でもパブリックなものとして来た。でも今、自分のためにもう一度戻りたい。大役を望むわけじゃあない。台詞がいっぱい欲しいわけでもない(これはもともと、笑)。画家の一筆のように、ミュージシャンのワンフレーズのように、そこに魂を込められればと(なんか恥ずかしい奴だな、まっ、いいか)。理由は悔しいから。それだけ。自己満足。でも安心してくれ。出力は同じ。そこは俺のプライドだ。
よく人は二度死ぬと云われるよね。リアルな死と残された者たち(俺にとっては出演者、スタッフ、同業者、観客、演劇の神様)の記憶から消えてしまう時と。その二度目を少しでも延命したいんだ。それですら死んでみたら自己満足でした、そんなもの、だったって解ってもいるのだが。
だからもう少し待っていてほしい。いつか必ず復帰するから。いや、敢えて無礼を承知で言わせてもらう。最低もう一度は俺を使え。君にはその「責任」がある。だからもう少し待ってろ。と。
それともう一つ、入院中から考えていたのだが自分より若い俳優たちに何かを伝えられないかと思っている。ありきたりにワークショップとかでもいいのだが。振り返るとのほほんと役者をやって来た俺だが何時の頃からか生業だなと思っていた。続ける理由を他人に問われれば「矜持」です、と答えるようになっていた。大きな仕事なぞ残せちゃいないが、それでも長い間に身に着けた、自分の中に創り上げたものがあると自負している。だから生業だと、故に続ける義務があると。それを支えるものは正(まさ)しく「矜持」だと。大したものではない、俺が伝えられるのは初歩の初歩くらいだと思ってはいるが(でもそれが一番大事なんだよな)、これから続けていく人達に少しでも役に立てばとな。五十を過ぎてから小出しはしていたが健康ならこんな事考えもしなかっただろう。ライバルになるかもしれない奴等にそうそう手の内明かせるかと。でも時間は有限であると見せつけられると否が応でもな。考え方が変わるのよ。でもそんな人望ないような、あーっもっといい人でいればよかった。まあ、これも自己満足だがいづれはと思っている。この件は君や他の人たちにも手伝ってって言うかも知れない。その時はよろしく頼む。
随分長々と書いてしまったが、とりあえず君には現状を伝えなくてはと思った訳だ。このメールはオールフリーとする。一部全部問わず転送、転載その他二次使用を許可する。但しその場合一報くれると有難い。俺の事、他人に訊かれ面倒くさかったらそのまま転送でもしてくれ。
何だか遺書みたいになったがそんな事は無いからな。俺はまだまだ生きるよ。本当にお迎えが近づいたら君にも遺書を送る。その中身は説教でいっぱいにしてやる予定だ。上にも書いたが腰から上は元気だ。近い内に会いたいと思っている。ではその時にでも。
植村せい
追伸1 七月に左近を見送りました。眠るような最期、14歳、パグとしては標準的に生きてくれたよ。ありがとう。30年ぶりに足元に命の無い生活を送っています。うちの奥さんなんて40年ぶりだって(笑)。犬猫問わず次のコが迎えられない身体が恨めしいです。
追伸2 このメール、君に宛てたモノだけど、幾人かにもママ送るかもしれません。俺を俳優として認めてくれた使ってくれた使おうとしてくれた幾人かに。あくまで気が向いたらだけど。その時は申し訳ないが了承願います。
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