楽園王『夢十夜』第二夜-侍-
原作:夏目漱石
脚色/演出:長堀博士
出演:大畑麻衣子(miez miez)、吉成豊
「夢」+「夜」の2つの公演の「夜」チームの中の1篇。
楽園王『夢十夜』第七夜-船-
原作:夏目漱石
脚色/演出:長堀博士
出演:しんばなつえ、加藤彩(SRF)、宮田みや(さかさまのあさ)
「夢」+「夜」の2つの公演の「夢」チームの中の1篇。
楽園王『夢十夜』もう一つの第四夜-ハム-
作/演出:長堀博士
出演:仲路末平
「夢」+「夜」の2つの公演の「夜」チームの中の1篇。
楽園王『夢十夜』もう一つの第九夜-歯医者-
作/演出:長堀博士
出演:宮田みや(さかさまのあさ)
「夢」+「夜」の2つの公演の「夢」チームの中の1篇。
楽園王『夢十夜』もう一つの第八夜-閉店セール-
作:/演出:長堀博士
出演:加藤彩(SRF)
「夢」+「夜」の2つの公演の「夢」チームの中の1篇。
楽園王『夢十夜』第三夜-盲-
原作:夏目漱石
脚色/演出:長堀博士
出演:小林なほこ、仲路末平、吉成豊
「夢」+「夜」の2つの公演の「夜」チームの中の1篇。
楽園王『夢十夜』第六夜-運慶-
原作:夏目漱石
脚色/演出:長堀博士
出演:しんばなつえ
「夢」+「夜」の2つの公演の「夢」チームの中の1篇。
楽園王『夢十夜』もう一つの第十夜-女-
作:/演出:長堀博士
出演:吉成豊
「夢」+「夜」の2つの公演の「夜」チームの中の1篇。
楽園王『夢十夜』もう一つの第五夜-砂漠-
作:/演出:長堀博士
出演:大畑麻衣子(miez miez)
「夢」+「夜」の2つの公演の「夜」チームの中の1篇。
★☆アフタートーク①「夢」チーム
出演:しんばなつえ、加藤彩(SRF)、宮田みや(さかさまのあさ)
*オマケ映像として、「第七夜-船-」の別バージョン映像を公開。
☆★アフタートーク②「夜」チーム
出演:大畑麻衣子(miez miez)、小林なほこ、吉成豊、仲路末平
*オマケ映像として、急きょ撮られた「第一夜」の朗読上演を公開。
成功体験が人を作る、という話。
成功体験が人を作る。作ってしまう。人は、いい思いをすれば、同じ体験をしたくて、同じこと、似たようなことを繰り返す。そして、そんな反復はそれをその人の身体に染み込ませ、その人の特徴に成って行く。その人自身のモノになる。それが、普通に生きて行く上での自然な流れだろう。だから、逆に見ていくと、その人の特徴的な振る舞いから、その人の過去の成功体験を想像することが出来る。何でその人はそんなことをするのか? ああ、こんな経験をすれば、人はああなるのだな、なんて、その人をよりよく知る手掛かりになる。
・・・というような考えを、さて自分に当てはめて、自分の過去と現在を反省してみるのは悪くないと思う。思った。何故なら、過去の成功体験なんて、同じようにしたって再現出来るわけじゃないから。よくよく思い出してみればいい、過去の偶然に録でもない屁理屈をくっ付けて、あたかも深い意味があったように同じように続けても、いい加減気付けよって話だが、バーン、もう同じ成功なんてやって来ない。同じ甘い汁なんて吸えやしない。むしろ傷付いたことだってあるはずだ。膝を着いたことだって。過去の成功体験なんて賞味期限短いのに、いつまでしゃぶってんだよって話。でも人は愚かだから、それでも過去の成功体験を手放さないんだよね、過去の成功体験は麻薬でもあるから。はぁ、困ったもんだよ自分。
さてさて、んじゃ、もし私達が過去から何かを学ぶとしたら、そこから何かヒントを得て、成功に近づきたいなら、その時に必要な態度とは、過去の失敗にこそフォーカスすることじゃなかろうか。失敗。悔しさ。過去の何かに対し同じ思いをしたいなんて思わず、違う快感を目指してって話で、自分の中の後悔に真面目に向き合う。場合によっては大変辛い作業だが、同じことを繰り返したくない、だから同じような失敗はしないと決める為には、仕方のないことじゃないか。改めて自分自身を見つめる。今の自分は過去の成功体験によって作られた木偶の坊だ。だって実際に、ここずっと、いい思いなんて全然出来てなんかいないじゃないか。だから、次に進むためには、一回考えを改めて、新ためて、過去の失敗を繰り返さないということにシフトする。発想の転換を。そこから先は、「繰り返さない」が基本姿勢だからね、確かに未知の領域なんだけど、さて現在からの脱却としては、やっとスタートラインに立てた気がしないかい? もう同じ思いは出来ない。それは諦める。そして、違う、別の形の、いい思いを目指すんだ。じゃ、過去の失敗から学ぼっか。
さて、話はここからやっと本題に。実はこの話、表現についての話なのである。こんな話題を続けてきたのも、そもそも話し始めた切っ掛けは、ああ、あの劇団、何を観ても一緒だよな、と思ったからであった。その一緒の理由を想像するに、最初の一回の成功した作品の影響が大きいのだな、と思ったのだ。だが、表現の話となると事は複雑で、それをただ闇雲に批判は出来ないなぁ、という思いも同時にはある。私達が、劇団を続け、次々と新作を発表するのには、一つ一つ単に独立した別々の違う作品を発表する、それが成功する、というよりは、それと同時に、一つの個性的な劇団の表現の模索という側面が付きまとう。演出家の表現と言い換えてもいい。ああ、あの劇団のあそこが好きだ、あの作風が、あの演出が、あの劇団のあの役者が好きだ、だからあの劇団が観たい、そう思われるようなカンパニーとしての個性の確立は、芸術性やエンタメ性、経済的な意味合いからも、劇団を継続して行く上で考えざるを得ない。だから、一つの作品の成功体験がその後に続く劇団そのものの作風に成って行くのはある意味では当然であり、必要な選択でもある、とも言えてしまう。かく言う自分も、過去の公演からバトンタッチされた様々を大事にしている。一つの作品の中で模索した表現が、継続され、熟成や発展に向かう場合もある。
だから、こうして話し続けてきた、今回のこの場合において思うのは、一つの注意点と受け止め、もうすでに自分の模写になってしまってないか? 無批判にそれを続けてないか? の検証だろう。昔からよく言われていることであるが、自分で自分の真似をするようになったらお終い、って言葉がある。ピカソはそれを発展させて、他人の模写こそが自分を打破して次に進める切っ掛けと、自分の真似を繰り返す周囲の画家を批判的に語ったことがあるらしい。それであれほど独創的な作品が描かれるのだから、他人の真似が個性を損なうものではないことが伺えよう、って話はまた別の話だけど書いておく。「学ぶ」が「真似ぶ」と言われることにもつながる話として。さて、で、話を戻して、この話の前段の結論は覆していけないと思われる。成功ではなく、失敗から学べと話したのだが、表現の話では例外で、では論は立ち行かない。表現の話としても、今書いたように、成功体験がその劇団を作ることを受け止めた上で、それでも、失敗にこそフォーカスして、新たな表現の広野に進めばいい、などと思ったのだが、如何だろうか。これは、ある段階から、もう一段階上がっての所での模索かも知れないが。
楽園王の作風は、幾つかの成功体験の積み重ねによって出来ているのは間違いない。今、配信された幾つかを観れば、作品毎の差よりも、このカンパニーの他の劇団との差にこそ、フォーカスが向く。そこに気持ちを奪われる観客もいるに違いないと思っている。それは、自然にそうなった訳ではなく、意識してそうしてきた結果だと言える。それはそれでいい。だが、あらためて思うのは、大事な検証として、単に自分で自分の模写になってしまっていないか、過去の成功体験を無批判に繰り返しているだけに陥っていないか、失敗にちゃんとフォーカス出来ているか、なのだろうと思う。客観、というワードが頭に思い浮かぶ。「観客」を必要とする舞台演劇において、「客観」とは切実だ。まあ、言うほどそれは簡単なことではないが、頑張るしかないと思う。今、あらためて心に刻んでおく、楽園王はここで完成でも、停滞でもない。まだまだ、次に行く心積もりがある。なんてことを、長い話が転がってきた先に記しておく。
でも、本当、人を見る時にその人の過去の成功体験を想像するのは役に立つよ。特に、嫌いなヤツの迷惑な行為とかね、ああそういうことか、と膝を打つことが出来るのは、留飲を下げることに繋がったり。
楽園王 長堀博士
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